「安楽死」の制度化を21歳の女性が求める

輝く

「安楽死」の日本における制度化を
若者が弁論大会で提案

とっさに、尊厳死のことを言っているのだろう、と思いました。
21歳の女性がある弁論大会で、「安楽死の制度化を提案する」と主張したという話を耳にしたときのことです。

還暦をはるかに過ぎた高齢者が発したセリフなら、理解できないこともないでしょう。
しかしそれが、20歳を過ぎたばかりの、それも弁論大会に登壇していることから察するに、おそらくは健康な若者の発言だと聞いたときは、一瞬耳を疑いました。

ところが、その弁論趣旨が掲載された新聞記事を読んで、自分の思い違いだと知りました。
記事には次のようにあり、彼女は確かに尊厳死ではなく安楽死、それも「積極的安楽死」のことを言っていたのです。

私は日本における安楽死の制度化を提案します。安楽死とは、患者自らが医師から処方された薬を自らの意思で服用し死を迎えるものです。

引用元:産経新聞2019.1.25

自分らしさを失った状態で
100歳まで生き続けたいと思うか

この主張を行ったのは、「私の100歳時代プロジェクト」をテーマに開催された、今年(2019年)の「土光杯全日本青年弁論大会」で「産経新聞社杯」を受賞した早稲田大学2年の大瀧真生子(おおたきまおこ)さんです。

「人生100歳時代」とか「人生100年時代」というフレーズは、最近ではいろんなところで頻繁に使われています。
100歳まで生きることを前提に生き方を見直そう、といったニュアンスが込められているようです。しかし、キャッチコピー的に使われているこの言葉を見聞きするたびに、100歳まで生き延びることを望んでいる人が実際どれほどいるのだろうか、との思いが胸をかすめます。

大瀧さんも同様の疑問を投げかけています。
さらに「100歳まで生きながら自分らしさを失わないでいられる人がどのくらいいるだろうか」「認知症などにより、自らの意思を伝える手段を失った状態で生き続けることは本当に素晴らしいことなのだろうか」とも……。

「安楽死」は積極的安楽死だけではない
事前指示に基づく「尊厳死」も

大瀧さんが「安楽死という選択があってもいい」と言い切る背景には、急速に進む少子高齢化の負の側面から目をそらすことなく、現実を受け止めようとする姿勢がうかがえます。
その現状を踏まえて、彼女はこう主張しています。

(私たちの世代は)定年後の人生において自分らしさを発揮できるような経済的余裕がないかもしれない。そのような状況の中で人生最後の選択肢に安楽死があってもよいのではないでしょうか。

引用元:産経新聞2019.1.25

「積極的安楽死」だけではない

こうした主張を受け、私としては、大瀧さんにお伝えしたいことがあります。
現在考えられる「安楽死」の方法は、あなたがいう安楽死、つまり致死量の薬物を自ら服用して死を迎えるという「積極的安楽死」だけではありません。

現在私たちの国では、尊厳死の観点から、アドバンス・ケア・プランニングの取り組みが「人生会議」という愛称のもとに進められています。

「もしものとき」に自分らしくいられるように、受けたい医療やケア、最期の日々を過ごしたい場所などについて自分の心づもりを医師や家族を交えて話し合い、自分自身で自分のことを決められなくなったときに備えておく取り組みです。
最近流行の「終活」という表現を借りれば、「いのちの終活」作業です。
「いのちの終活」という言葉に込めた思い

このなかには、延命治療としてよく知られる人工呼吸器の使用に関することや、口から食事をできなくなったときのこと、あるいは透析療法の継続を見合わせることなど、「消極的安楽死」に相当する項目も含まれます。

また、「間接的安楽死」と呼ばれるセデーションという方法を選択することも、もちろん条件はありますが、できるようになっています。
緩和ケアとしての「セデーション」と「安楽死」

自分の人生の最期を自分らしくとの考えから、さまざまな取り組みが進んでいることも若い世代の方々に知っていただけたらと思い、ポイントとなるところをざっとまとめてみました。