アドバンス・ケア・プランニングに、
「人生会議」の愛称は相応しい?
「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)をもっとなじみやすい名称にして、そのさらなる普及を図ろう――。
そんな目論見から、厚生労働省が愛称を公募し、審査した結果「人生会議」に決定したことは、前回書いたとおりです。
⇒人生会議(ACP)は元気なうちから何度でも
昨日、仕事仲間との食事の席で、この愛称のことを話題にしてみました。
まずあがったのが、こんな声でした。
「終末期に受ける医療やケアの話に『人生』ってちょっとオーバーじゃない?」
この発言に続いて、アドバンス・ケア・プランニングについては、2か月ほど前に新聞記事で知ったばかりだと断ったうえでの感想も……。
「『会議』というのもどうかしら。アドバンス・ケア・プランニングには、自分はこうしてほしいと、考えていることを医療関係者に相談するイメージが強かったから、会議というのにはちょっと抵抗がある……」
母親を看取った体験から言えば、的を得ている
このような、「人生会議」という表現に否定的な声が多いなかで、1人だけ、
「いや、僕は経験から言って、なかなか的を得た愛称だと思うよ」
と肯定的な発言をしたのは、50代の男性、Nさんでした。
彼はごく最近、がんで長期間闘病を続けていた母親を、入院先の病院で看取るという悲しい体験をしたばかりです。
このことはみんなが知っていただけに、おしゃべりを止めて彼の話に耳を傾けました。
事前の話し合いもないままに、
母は納得して逝けたのだろうか
Nさんが母親の死期が近いことを初めて現実のこととして認識したのは、面会に訪れた際に別室に呼ばれ、主治医から、母親の病状はかなり厳しく、予後もそう長くない旨の説明を受けたときだったそうです。
「説明を終えた主治医から、お母様には私から直接ありのままをお伝えしてもいいのですが、できたらあなたからお話ししてもらえますかと聞かれ、ハタと迷ってしまった」
彼が迷った理由は、
「わが家ではもしものときにどうしたいか、なんて話はやはりタブー視していて、聞いたことがなかったから。ああ、元気なうちに事前指示書でも書いておいてもらえばよかったなあと、悔やんだものです」
ありのままを知ったら気落ちしてしまうのでは
その時点で彼の母親は、意識ははっきりしているし、認知症を疑うような症状があるわけでもなかったそうです。
「とはいえ、体力も気力もすでにかなり落ちて弱気になっていて、まともな判断は期待できない状態でした。仮にありのままを知らされたら、おそらくがっくり気落ちしてしまって、むしろ病状を悪化させる結果になってしまうのではないかと考え、主治医には、母には何も知らせないでほしいとお願いしました」
彼が母親を看取ったのは、それから半年ほどしてからのことでした。
「母が亡くなってそろそろ3か月になりますが、あれでよかったのだろうか、母は自分なりに納得して逝けたのだろうかと、ずっと自問自答を繰り返しています」
アドバンス・ケア・プランニングは、
前向きに今後の生き方を考える仕組み
彼はひと通り話し終えると、吹っ切ったように顔を挙げ、こんな話を始めました。
「ほら、僕らって、著名人とかが亡くなり、その訃報が伝えられたりすると、いっときそのことを話題にするでしょう。そのときが、自分の最期に思いを馳せるいい機会だと思うんだよね。自分だったらそのときどうしたいだろうか、とかね……」
これには「ああ、それっていいかも」という話になったのですが、
「でも、健康で生活できているなかで、いきなり死期が迫ったときのことを考えるというのは、なかなか難しいわね」
との声も聞かれました。
いきなり最期のときの話をするのではなく
この発言を受け、ずっと黙ってみんなの話を聞いていた私は、日本医師会が医療従事者を対象に作成し、ホームページ上に公表しているアドバンス・ケア・プランニング(ACP)に関するパンフレットのなかに、こんな一文があることを紹介しました。
ACPは、前向きにこれからの生き方を考える仕組みです。
その中に、最期の時期の医療及びケアのあり方が含まれます。リビング・ウィル等のAD(Advance Directive;事前指示)の作成も入ることがあります。まずは、話し合いのきっかけをつくったり、話し合いのプロセスの場を提供することが重要です。
ここにある「前向きにこれからの生き方を考える」ということが、アドバンス・ケア・プランニングを行っていくうえで一番大事なんだろうと思っています。
つまり、いきなり人生の最終章である死期が近づいたときの話をするのではなく、世間話でもいいから、身近にある健康の話とか、自分がいま受けている、あるいはこの先受けるであろう医療やケアについて話すことからはじめるのがいいのではないでしょうか。
まずは今の自分の健康や生き方を
Nさんが言ったように、著名人の病気や死にまつわる話をきっかけにして、今の自分の健康状態や生き方をまずは考えて、さらにその先へと考えを進めていく――。
その延長線上で、必ずやってくるであろう自らの最期のときを考え、自分が考えていることを家族や友人と話し合い、病院を受診するようなことがあれば、医療関係者らとも話し合ってみる時間を持つようにしていくと、アドバンス・ケア・プランニングの自然な流れになっていくのではないでしょうか。
「このように考えると『人生会議』という愛称も悪くはない」
という結論で、その日の食事会は散会となりました。
今度は取材で知り合って以来懇意にしていただいている医師を、彼らとの食事会に誘ってみようと考えています。その折には、またこのブログでどんなやりとりになったのかご報告するつもりです。