「延命治療」に
家族の「待った」がかかった
自分にとっての延命治療ってどんな治療でしょうか。
これからの生き方を考えるなかで、いわゆる「もしものとき」に備え「事前の意思」を書き留めておこうとしたときに、まず突き当たるのが、「延命治療を受けたいか、あるいは延命はしてほしくないか」という問題ではないでしょうか。
そもそも一口に「延命治療」と言っても、この用語自体にきちんとした定義があるわけではありません。
一般的には、「いのちを延ばす方法」、つまり「治療行為をいっさい行わずにそのままにしていれば死に至るはずのものを、さまざまな技術を駆使して生かし続けるための治療」といった意味合いで使われていることが多いように思います。
まずとっさに頭に浮かぶのは、心臓マッサージあたりでしょうか。
この心臓マッサージについては、取材した医師から、「15年ほど前の研修医時代に苦い経験をしている」として、こんな話を聞いたことがあります。バイト先の病院で当直をしていたときの話、とのことです。
病棟の夜勤ナースから緊急コールがあり、急いで病室に駆け付けると、患者さんがしゃくりあげるような、途切れ途切れの呼吸をしている――。
とっさに「心肺停止*だ」と判断し、条件反射的に心臓マッサージを開始した。
ところが、付き添っていた息子さんから、間髪を入れず、「母はもう歳ですから延命治療は結構です。静かに逝かせてやってください」と言われてふっと我に返り、心臓を圧迫していた手を止めたそうです。
「延命治療」がときに「救命治療」に
心臓マッサージを中止すると、ほどなくして患者さんは息を引き取りました。78歳でした。
患者さんはアルツハイマー型認知症で、老人ホームで2年間ほど介護を受けながら生活していたのですが、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)を起こして3日前に病院に搬送されてきたところでした。
亡くなった後、息子さんからとがめたり非難するような言葉はいっさいありませんでした。
「お世話になりました」と深々と頭を下げて立ち去ったそうですが、「僕自身は、医師として釈然としない気持ちが残った」と振り返っておられます。
「僕ら医師には、人のいのちを救うという使命感がありますからね。いのちを救う方法があるのであれば、できるかぎり救うことに力を尽くすべきだと思っています。また、それをやらないでいると、場合によってはご家族から『医者に見捨てられた』といって訴えられたりもしますからね」
加えてこの患者さんは、78歳という高齢ではあるものの、老人ホームで誤嚥性肺炎を起こして病院に入院してきたという経緯があります。
「医師としては、誤嚥性肺炎を起こした時点で、このまま逝かせたくないという判断があったからこそ病院に送られてきたのではないか、と考えたりもしました」
結局この一件は大事に至らず終わったものの、「延命治療と言われている治療法は、患者さんの状態や家族の願いなど、そのときどきの状況によっては救命治療になることもありますからね。正直、いまだに迷うことが多いですよ」と、複雑な心情を吐露しておられました。
「生きていてほしい」と望む家族が
「延命治療」を望む
医療技術の進歩に伴い「いのちを延ばす」技術は画期的な進歩を遂げ、その治療方法は実に多様化してきています。
その結果、多くの人が長生きできるようになったのは喜ぶべきことなのでしょう。
ただその一方で、「健康を回復する見込みがないのに何本もの管(チューブ)につながれて生かされ続けることだけはご免だ」と考える人が少なくないのも事実です。
医師としては、自分の目の前にいる終末期の患者さんがそのどちらなのか、非常に厳しい判断を迫られることがよくあると聞きます。
つまり、ありとあらゆる延命治療を受けて、この先もできるだけ長く生き続けたいと望んでいるのか、あるいはいのちを延ばすためだけの治療は全く望んでいないのか――。
延命治療を検討するような状況にあっては、多くの場合、患者さんは自ら意思表示をすることがきわめて難しい状態にあるものです。
一方、そのような事態に直面した家族は、概して「まだ生きていてほしいから、何とかして救ってほしい」と望みがちです。
結果として、仮にあなたが延命治療は望まない選択をしていても、そのことを事前に意思表示し、家族の了解もとりつけておくことを怠ったがために、無理にいのちを延ばす治療を受けることになったとしたら、なんとも無念と言うほかないのではないでしょうか。
そうならないためにも、事前の意思をもとに家族や医療関係者と「もしものとき」について話し合うという、いわゆる「アドバンス・ケア・プランニング」(人生会議)が大切になってくるのだろうなと、つくづく思います。